2021/04/04
過激派ヴィーガンという言葉が流行ってます。元はフランスでの食肉店襲撃により浸透したように思いますが、最近、日本でもそう呼ばれるグループがあるそうです。
私はヴィーガンでも過激派でもなくて、乳製品を摂るインディアンタイプのピュアヴェジタリアンで、この食生活になって10年。ヴェジタリアンの世界に入ってそれなりに長い時間が経過し、革製品など動物を由来とする製品にも非常に抵抗があります。もう非菜食だったのは遠い前世の話のように感じますが、両方の世界観を知っているつもりですから、何故に過激なヴィーガンが生まれてしまうのか、それは本当に過激であるのか所感を述べてみたいとおもいます。
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もくじ
菜食者から視た過激派への理解
まずこれまで肉食をしていた人が菜食に舵を切るとどうなるのでしょうか?
病気は消え、動物への同情を覚え、植物の完全さに気付き、信仰心すら芽生えていくことが殆どでしょう。
これは人として、感覚が全方位に拡大し、健全な状態であるともいえます。さらに潜在的なポテンシャルが発揮されやすい状態になっていますから、方向性は間違っていないものの、やや弾みがつきすぎて自己のコントロールがイマイチになっている状態にはありそうです。
しかし、そのような新しい視点と感覚を持った人格が、かつての自分同様に肉、魚、卵を食する人達をどのように見るでしょうか、、、、、多くの場合、愚かにみえてしまうのです。
そこで、菜食が板に付いてきた、新ヴェジタリアン達は自然と身近な人々に啓蒙を始めるでしょう。悲劇はそれが理解されないところから始まります。
過激派のレッテルを貼られた人々も過激といわれる行動以前に、やんわり菜食をススメるところから始めた人も多いでしょう。しかしコトはそう簡単には運ばす、理解を得られないどころか、実は過激な拒絶すらされたこともある筈です。そういった相互の軋轢から次第に社会的許容をはみ出していき、親切心から始まった行動がいつしか煙たがれる結果に落ちてしまう、残念なことです。
しかし、過激派であってもなくても、菜食者が主張する動物への痛み、環境への配慮、身体への好影響は、事実であるというジレンマがあり、この問題を複雑にしています。
非菜食者の意見への理解
自分の楽しみにしている食事を眼の前にして、ケチをつけられる、嫌な顔をされるなどされたら、誰だってご立腹でしょう。まるでその人を否定するようなものですから。
菜食者は、人に嫌われてしまうことでも、大きな正義感を持っていますが、そこにあまりにも釘付けになっているのです。
肉を食べること、それは本当に個人の自由で育った環境に大きく影響される部分でしょう。また菜食というだけで上から目線で話されることは不愉快であることは共感できます。 ただ、人を不愉快にしてまでも、菜食をアピールする人達は、得てして菜食者に成り立ての者が多いことを覚えておいてあげてください。 過激派などといわれ行動している層の殆どは、つい最近まで非菜食者同様の食事をしていた可能性が高いです。何かのキッカケで生き方が180度変わり、とにかく熱くなりやすいタイミングなのでしょう。 菜食主義の大きなメリットとして感情をコントロールしやすくなるという変化があります。 彼らはそこまで至っていない表面的なヴェジタリアンが殆どにみえます。
それゆえ初心者ヴェジタリアンほど過激であり、まるでかつての自分同様の人々を攻撃することで罪を精算するかのような馬鹿げた心理状態すらみえます。 そんな人達は菜食主義者としてまともじゃないよって、からかってあげましょう!
両者の意見が纏まらないのは、、、
菜食者サイドはより崇高な精神で、眼の前の人を菜食に変えられたとしたら、疑いなくその人も環境も救えると思っており、非菜食者サイドにしてみれば、例えそれが遠回しに本当のコトであっても、ウザったい。特定の個人やグループから諭されるようなことじゃなく、放っておけよって話です。
よって人が菜食になるかどうかは必ず自発的でなければならないのです。
キッカケはなんでも良く、動物への不殺生と非暴力のアヒムサーの気持ち、自分の肉体への配慮、あるいは海外のセレブ達をみて真似をするファッションヴェジタリアンもいるし、俺は卵だけは食べちゃうといった、それはもう菜食じゃないのにヴェジのつもりの人もいます。とにかくどんなに健康を得られ、エコフレンドリーの優しい気持ちで菜食をススメても、それが押し付けになるならば、その親切心はもう腐っているのです。
そして、わざわざ精肉店や肉フェスへ行って行動をとるべきではない、それは侵略と同じですから。
しかし非菜食者も、今後社会のヴェジタリアン比率が高まるにつれて、今までと同じ意識は通用しなくなってゆくでしょう。
そこのところのバランスがまだ確立できていないのが、対立の要因に思えます。
お互いを頭ごなしに否定するのは社会の成熟により、次第に消えていくはずです。
ですから、ヴェジタリアンの人は口を閉じるのがいちばんです。
沈黙がもっとも雄弁なのです。
ラマナ・マハルシ
今回の過激派ヴィーガン騒動の反応をみてきた
今回の過激派ヴィーガン騒動はネット上でどのような反応だったのでしょうか?
その中で、こりゃすごいとおもったのがガールズちゃんねるという掲示板でした。https://girlschannel.net/topics/2128624/
じゃあ植物も食うなよ
大根食ってるだろ?人参食ってるだろ?
穀物も野菜も海草もきのこの菌も生きてるんです!
人は縄文時代から肉を食べている。
選択の自由。植物は殺していいの?
すごいエネルギーですね。
こういう強さは男性にはないですから、なんとなく頼もしさを覚えました。何かのキッカケでヴェジタリアンになるなんてホントにあっという間です。
いつか菜食に転じた折は、過激過ぎない程度に盛り上げてください。
実際、ヴィーガンとして影響力のある人々は、かつては上記のような意見を持った人に多いんです。
牧場に生まれ育った者、根っから菜食主義者を軽蔑していた者、最先端の医療で失敗した者など。有名なところでは、世界一の心臓病の権威であるDr.エセルスティン、チャイナスタディの著者であるT ・コリン・キャンベル、ヴィーガン転化により心臓病をキレイに克服したクリントン元米大統領などなど。
菜食主義に転向するのは難しい。が、菜食主義者が元の食生活に戻るのはもっと難しい。
植物も喰うなへの回答
植物、動物、人間それぞれの生き物には役割があります。植物は太陽と地上のエネルギーを直接に反映した丸出しの自然の姿。それを養うのが植物を食べて生きている動物。彼らの食事が植物の生育サイクルを健全にしているのは事実です。多すぎる繁栄を間引きながら土に栄養を与え、種を運ぶ。すべて切り離せないサイクルになっています。それから肉食獣の存在。少数の彼らは草食動物の数を調整する役目があります。
そして、われわれ人間ですが、人は監督役を担っていると思います。人間には動物の身体に神の精神が宿っていると思い、植物と動物の良き友達でなければならない。
そんな人間は本来何を食べるのが正しいのでしょうか? それは私達に元から備わるものから浮き彫りにされます。
- 人間の歯は果食動物のそれにマッチし、さらに穀物をすり潰すのに好都合な臼歯があり、糸切り歯は退化している
- 唾液の酵素は穀物を消化するのに適している
- 腸の長さは果食動物と草食動物の間
- 人間には生きた牛や馬を視て、襲いたくなるような本能は全くない(むしろそれらに対して慈愛の気持ちを持つ)
心身はむしろ菜食であるのが、自然である造りになっており、
- 果実はその季節に合ったものを育み、自然は味付け、皮などのパッケージデザインまで完璧に用意してくれている
- 人の手はそれらを木々からもぎ取り、皮を剥くのに適している
- 爽やかなフルーツをみて唾液が分泌される
- 野菜の色、形、甘さは、季節のストレスを反映、対抗したものである
※ヨギ、スリ・ユクテスワによる人が食べるべきものとそうでないものを含めた、ヒンドゥー教側からキリスト教を読み解いた一冊。
自然はみずからの育みを提供してくれんばかりの状態にいつもあります。大地に根を張った植物は移動できないので、寒さや日差しや風雨から受けるストレスを体内の糖度やファイトケミカルの産生によって抵抗します。人や動物はこれを食用することにより、暑い夏ならば体温を冷やす、真冬ならば暖めるといった恩恵が得られるわけです。
有情と無情
生き物には2つのタイプがあります、有情と無情。有情とは危害を加えられたり、屈辱を味わされた時に逃げるもの、泣くもの、血を流すものです。植物も喰うな!の主張は、植物の側から否定されている様に思えます。誰が収穫される野菜や果物の悲鳴を聴くでしょうか。
それどころか、もし人や動物達が熟した果実を得ることなく放っておけば、それは腐り落ちてむなしく土に還るだけなのです。完璧な状態に育った野菜、果物は見る者を誘惑し、それを与えることに役割があり、それを喜んですらいる存在なのです。
現代人は明らかに動物を食べ過ぎです。食用目的の動物を飼育することで環境を破壊し、食料不足を招いているのですから、正しいとは言い難い欲求を満たすために地球が犠牲になっている格好です。これではまるでガンではないですか。
ガンはその宿主を殺せば自分も死ななくてはならないのですから。
現代の肉食は脳が覚えた快楽!
縄文時代には肉を食べてただろう! という声もありました。その頃は常に食糧難ですから、大きな獲物を仕留めて食べる=パーティーであって、食べられない日の方が遥かに多いのです。野生の肉食獣もそう、ライオンですら獲物を捕えることができるのは、せいぜい週に一度か二度。それ以外は飢えています。縄文時代や石器時代の人々も同じ状態にあっていつも飢餓と隣合わせの生活でした。その不安定な生活からの脱却が、弥生時代に始まった農耕で、それによりいつも獲物を追い求める生活は終わり、人口が増え、繁栄を得ました。
しかるに、今日の食糧事情は、飽食により健康を害している状態ですから、本来肉がなくても飢えることもないし、栄養が足りなくなることもありません。しかし、文明の発達とともに生のままじゃ食べれないものでも料理で誤魔化しつつ、どんどん消費しています。これでは病気になってしまいます。自然界で飢えつつ肉食をしていた頃の姿ではなくて、後天的に脳が覚えた条件付きの快楽であって、性質としては、アルコールやカフェイン、ニコチンと大差ないものです。
反面、人間には犬や猫は飼うということが出来ます。人の本能は動物を愛でるこちら側にこそあるべきです。
ハーリティ(鬼子母神)のはなし
インド神話のハーリティは仏教では鬼子母神として、法華経に登場します。この鬼子母神にはたくさんの子供がいて500人〜1000人といわれていますが、たいへんな子煩悩の母親でした。しかしながら、その子供たちを養う為に鬼子母神は人の子ををさらっては食べていたようです。それを見かねたお釈迦さまは鬼子母神の末っ子を隠してしまわれました。すると、彼女は半狂乱で探し回り涙に明け暮れたのです。そこで、お釈迦さまは「たくさんの子がいても嘆き悲しむのに、子を奪われた親の苦しみはどれほどか」と鬼子母神に諭しました。そうして、鬼子母神は改心し以後は安産と子供の守り神となったのです。
菜食とは本当に素晴らしいものですが、スパッとそれを理解できる人は100人に1人もいないことを私は知っています。
ですがこの仏教説話のように、子供を奪われた鬼子母神は健康を失った現代人のようなものと言えます。そして100人に1人は転向した途端、まるで菜食主義の守り神になるようなことすらあるんです。
菜食のススメはブログがいちばん
私なりに菜食主義者と非菜食者との意見の相違をまとめてみましたが、結局のところどうしても菜食を押してしまいます。ですが、その方法はデモや襲撃であってはいけません。平和にしてやるけどそのまえに誇りを傷つけるぞっといって侵略してくる乱暴者に誰が従うでしょうか。
まず、世の中の痛みを抜くという大願、があるのならば、、独り言をつぶやくようにブログなりでしれっと訴えて、あとは無言での行動が力を生むはず。真っ向勝負は避けましょう、逃げるが勝ちです。
生きとし生けるものが幸せでありますように、
生きとし生けるものの悩み苦しみが無くなりますように、
生きとし生けるものの願うことが叶えられますように、
生きとし生けるものに悟りの光があらわれますように、、、。
全ての衆生が幸せでありますように、全ての衆生が幸せでありますように、全ての衆生が幸せでありますように
※慈悲の冥想より
※本記事写真はwww.peta.orgより拝借