2021/04/04

因果は応報する。
これは私のようなヨーガや仏教の好きな人間には根底にある概念で、見えないカルマが厳然としてあるから
一見不平等に見えるようなことも平等であると割り切れ、業があることの証にもなっていると思っています。
良いことも悪いことも、巡り巡って自分に返ってくるという前提は常にありましたが、
ここ最近の小さな小さな体験に感じるところあり、因果の考察してみます。
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私の最近の体験集
ここ一月にあった実体験を述べていきます。
私は主食は玄米派で白米を食べると腹にベトつく感じすら覚え、明らかに身体が重くなってしまうのですが、
そんな私に限って人は好意で白米をくださる(^_^;)
白米は私にとってのファーストチョイスでは無いものの、その気持ちは嬉しい限りです、そこは有り難く貰っておきます。
そして、私なりに雑穀米など工夫して食べるのですが、やはり玄米に慣れていると雑穀米はなんだかフリカケ程度に思えて、次第に便秘してくる。。
やっぱり結局は玄米を注文するのです。
そんなこんなで、手を付けていない5kgのお米が二つありました。
こんな時、近所の懇意の酒屋では別のものと交換してくれるような付き合いがあります。
今回も持っていけば、私の大好きな銀河高原ビールなんかと交換してくれるでしょう。
ただ、そういうことが癖になっては良くないので、なるべく自分からはお願いはしないようにしています。
米を手放す1、ちゃんと酒になった
手放すも何もそもそもが貰い物なので偉そうな事は言えないのですが、
酒屋の話をしたのはやっぱりこれ酒にならんかなぁ、、、と思っていた節があるからなんです。
でも未練があっても前述のように恥じらいもある。
そこで、コロナの流行がさらに本格化しスーパーから米が消える消えないといった話まで燻っていた時分でしたから、
いっそのことあげちゃおうと、仕事に困ってそうな近所のエチオピア人にあげました。
訪ねた時、彼は歯を磨いていてモゴモゴ言うだけでまったく意味不明でしたが、何やら嬉しそうではありました。
これでよし。彼は同胞と美味しいご飯を食べてくれるだろう、、、などと思いつつ翌日。
その彼がやって来て、わたしに上物のジンをくれました。
わたしはこれが酒になったらこんなのがいいなと、頭の中に思い描いていたのは実はウォッカだったんです。
それが酒屋を通さず、奇しくも同じ蒸留酒となって返ってきたのは予想外で嬉しかった。
米を手放す2、小さな願いが叶う
話が矛盾するようですが、私はずっと精米機が欲しいと思っていました。 玄米が好きなのは間違いないのですが、
年に一度、30kgの玄米をくださる方がいて、これがいわゆる汚染の最もひどかったエリアからの贈り物なのです。
今となっては、厳重に検査された汚染地域の玄米と検査の無いそれ以外の地域のものとどちらが良いか悪いか全く分かりませんが、
セシウムは米の表皮に溜まるので、気分的に糠や皮を落としたほうが楽なのです。
そこで、玄米を食べたいのもやまやま、仕方なく5kgづつ担いで精米機に行くのが常でした。
もう10年来そんなことやっていて、最初から精米機を買っとけば、ずっと楽だったなと冬がくる度におもっておりました。
さらについ最近、やはりコメ不足来るかなと思い、、、格安のくず米(玄米)を30kg買ったのですが、米自体はいいとしてもとにかく石が混ざってるのがツライ、、、。
結局は精米機を通さないと無駄になりそうで、精米機を物色していました。
そんなこんなでお米とは縁があるのかも知れませんが、
近所にうちの猫が失踪してから、ずっとポスターを貼ってくれている介護関係の会社があります。
どうやらそこの社長は猫のボランティア活動もしている立派な方で、同じく消えた自らの愛猫ポスターと遜色なくうちの子のも貼ってくれています。
これには内心涙を流しつつも、
最近挨拶してないなと思い、もう一つの米を持って行くことにしました。
あいにく社長は留守でしたが感謝の意を伝えお米を置いてきた次第ですが、
その帰り道に、わたしがずっと欲しかった精米機が例の酒屋の入り口の脇にちょこんと置かれているではありませんか。
え〜、こないだネットで物色していたようなやつがあるじゃん〜〜っと、、、
酒屋のおやじに訊くと裏のなんとかさんが使っていた精米機だが、玄米を食べるようになったのでもう要らないと置いてったという。
どうするのこれ、、、、う〜ん、捨てるしかないかなぁ、、壊れてないんだけど誰か使う?
という展開が待っていました。
もちろんお礼に酒をたくさん買って精米機を貰ってきたのですが、酒屋のおやじはいいよいいよ、、このままじゃゴミだったんだからと笑うw
頭の中で登場していた酒屋まで出てきて、欲しいものが全て集まってしまいました。
コロナといえばマスク
私はこのブログ以外にも運営しているサイトがあって、mixhostというやや新鋭のサーバーを借りています。 因みにこのブログはエックスサーバーで始めましたが、
エックスサーバーの契約更新が近づくにつれて、このブログもmixhostに引っ越したいと思うようになりました。
そして、先日苦労しつつも慣れない引越し作業を終え、こうして新しい記事を新サーバーで書いている次第です。
コロナ真っ盛りでマスクに法外な値段がついていた時分。
ただ私には買い溜めしてあるマスクがそこそこあり、マスク不足とはなってませんでしたので、メルカリ等で縁のあった方へおまけとしてマスクを付けていました。
これはなかなかに喜ばれ気持ちの良いものでしたが、ちょうど5人に1枚づつマスクを付けて品物を送った翌日、ポスト開けるとmixhostから封筒が来ています。
レンタルサーバーからお便りが来るなんてこと今までありませんでしたから、なんだろと開けると心暖かいメッセージとともにマスクが5枚入っていました。
こうして、一月の間に3つの小さな偶然を経て、思うことがありました。
巡る因果と停滞する因果
因果応報が絶対ならば良いことも悪いことも、小さなことも大きなことも跳ね返ってくるでしょう。
この跳ね返り方に特徴があるなと思うようになりました。
今回、酒も精米機もマスクも私は欲しがらなかった。 単純に食うに困ってないか、お世話になってるお礼に、ご自愛くださいよ、、という動機でモノを手放したら欲しいものと欠けたものがキッチリ揃ったワケです。
コツを掴んだ感触がハッキリありました。
しばし自分を振り返ってみます。。
私は年に3回献血をしています。
そのココロは私のようなヴェジタリアンはじっさい血がキレイですから、それを人様に分けてあげたいというものです。
ですが、その気持ちには濁りがあります。 敢えて大嫌いな注射を、、、ましてや献血用のぶっといやつに耐える、、それによって天からご褒美があるに違いないと力み、恥ずかしながら良いことをしているつもりの自分に酔ってさえいるのです。
これが、善事を台無しにしてしまうのでしょう。
カルマ・ヨーガ
無私の行為をいいます。 見返りを求めず与えることだけによって自己を完成させていく道。 私にとっては献血がカルマ・ヨーガのつもりでしたが今回の小さな体験でカルマ・ヨーガを意識したカルマ・ヨーガはそれにならないことを知りました。
最高のカルマ・ヨーギであった釈迦は王子の地位を捨て乞食になった人です。
今後、わたしにもその何万分の一かサラリと真似できるでしょうか。
われわれはもうこの世の悦楽を信じず、その後も追わなくなる。そのように、われわれがこの世の後を追うのをやめたとき、この世の方がこう言うのである「わかりました。私はもうあなたを煩わせません。でもあなたが私をお使いになりたいときは、いつでもどうぞ—–」
そしてこの世があなたの後を追ってくる….
※インテグラル・ヨーガ
P.190〜